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2017.03.10 COFFEE PEOPLE ~ Vol.17 中野浩一 ~

毎月、各界のゲストとコーヒーを入り口に様々なトークを繰り広げていくCOFFEE PEOPLE。第17回目は競輪界のスーパースター・中野浩一さんを迎えてお送りします。

前人未到の世界選手権10連覇(V10)という偉業を打ち立て、しかもその記録が未だに破られていないというミスターV10の中野さん。今回は当時の貴重なエピソードをはじめ、後進の育成にあたるスタンスから見据えた、現在の日本自転車界や現代の若者に対する想いまでを大いに語っていただきました。ぜひともお楽しみください。

(聞き手:鳥羽伸博(TORIBA COFFEE代表)。写真:石毛倫太郎。構成:内田正樹)

 

弘法、筆を択ばな過ぎ

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——中野さんと言えば、1992年に引退されてからはテレビ番組やCMなどに出られているというイメージですが。

メインはやっぱり競輪ですけど、それ以外にもオリンピックだとか世界選手権だとか、そこを中心にやっているというのがほとんどですね。

——選手の教育という形では?

肩書きはJKA(※競輪とオートレースを統括する公益財団法人)の顧問で競輪学校の名誉教官になっているのと、あとは競技連盟のほうで理事になっているので、選手強化に関してはいろいろとやっていますね。昨年また強化委員長を引き受けたので、東京オリンピックまでに何とかしなきゃいけないというか。

——と、いうことは常に最近の選手を見ていらっしゃる?

まあそうですね。ヒマな時はテレビでレースを観るようにしています。

——現在で競輪人生は何年ぐらいですか?

40年を越えたかな? 業界でも俺より古い人がだんだんいなくなってきました。各団体のトップも、外から来た人か、もしくはいま理事になっている連中でもちょうど一緒ぐらいに入っているから、年齢があんまり変わらないんですよ。俺は高卒でこの世界に入っているし、向こうは大卒なのでその分の差があるかな。

——やはりデビューが早いほうが先輩ですか?

いや、関係団体は普通の社会人なので役職ですね。社長より係長が上なわけがないので。ただ現役の選手の場合は年齢が関係してきます。デビューが遅くても期が後でもやっぱり年齢が、というのが普通だね。

——ご自身で選手をされて、その後は選手を見てこられて40年ですか。

競輪そのものが出来たのが昭和23年(※自転車競技法が成立して、小倉にて第一回の競輪大会が行われた年)だったので、もう70年かな。俺の親父はそれ以前の選手なんですよ。当時は即席で作ったような頃で。「選手になりませんか?」「はーい」っていう人を集めて、そこで一応ざっと講習会みたいなのをやって、「じゃあ次どこどこで走りましょう」みたいな感じでやっちゃったのが最初だったと思います。

——いきなりレースですか(笑)。

そうそう。だからいろんな人がいましたね。それこそ戦後のどさくさだったから最初はヤバいヤツもいっぱいいた(笑)。あくまで聞いた話だよ? 自分も生まれる前だったからね(笑)。ともかく設備も施設もちゃんとしていなかったし、談合レースとか新聞沙汰とかいろいろあったみたいで(苦笑)。それで法律も出来て、競輪学校も出来て、最初は4ヵ月とかしっかり教育してからデビューさせようとなった。それがだんだん長くなって、俺の頃はもう昭和49年だから、その頃には1年間は競輪学校にいてデビューさせるという形になっていた。

——定員みたいなものがあるんですか?

昔は競輪場が安定しているのが大事でしたからね。最盛期は60何箇所も競輪場があったので。僕らが出た頃で50箇所ぐらいでしたか。現在はもう43まで減ったので、そういう意味でも昔よりも選手を減らさなきゃいけなくなりまして。

——そうすると、選手の気持ちにはハングリー精神が生まれるはずですよね。

本来はそうですね。でも多くは違う方向に向いているみたいで(笑)。「クビ」という制度がないんですね、競争点数が下がってきてそれでレースにでられなくなるということなんです。プロ野球なんかは球団のやり方一つだから、極端に言えば、要らないヤツは切ってしまえばいいし、サッカーでも20代前半でもいらない選手にはさっさと「いらない」と言ってしまいますよね。

——待遇面は今と昔では?

どうでしょうねえ? 昔のほうがよかった感じはしますけどね。賞金自体は、まあ人数の関係もあるけど下がっていると思います。ただ皆さんの目につくところは高くなっている。で、平均すると、昔のほうがいいくらい。俺らの頃がだいたい全選手の平均で1千何百万っていう時代があった。4千と4、5百は選手がいて、賞金総額は540億ぐらいあった。ということはひとり1千万を超える。いまはそこまではいかないと思うので。

——なるほど。

しかもあの頃は、選手会が「ひとりにたくさん獲らせたってどうせ税金取られるんだから冗談でみんなで分けようよ」とか言っていましてね(笑)。

——そんな組合的な(笑)。

例えば俺がどんどん稼ぐと、「中野だけ稼がせたってしょうがない。他のヤツにも稼がせよう」みたいな(笑)いまはトップは稼げるけど、下のほうは大変でしょうね。いまのほうが厳しいかな。でもその割には選手から意欲が感じられなくて。世の中の流れに乗っちゃっている雰囲気なのかな?

——かもしれませんね。ちょっとゆとり世代的な発想で。

そうですね。デビューした当時って、日本人総中流でしたからね。しかもバブル期なんかはお金に困ってなかったという時代で。いまは儲からなくなったよね。それを世の中がそうだからと、同じように諦めちゃっている雰囲気はあるかもね。誰かのせいにしちゃってね。もちろん、本当は自分のせいなんですけどね。

——なるほど。

教育のやり方にしても昔とずいぶん変わったと思います。

―本当にそう思います。スター選手が生まれる背景って、例えば昔の野球選手なら英才教育とか大リーグ養成ギブスとか(笑)、要は親なり先生なりが煮るなり焼くなり好きにする、みたいな感じがあったと思うんです。

たしかに昔はそうでしたね。だから“なぜ世界で勝てないのか?”と言われたって、まあいろんな国を見回すと、日本よりも厳しい環境や状況で頑張っている国がたくさんあるわけですから、ちょっと甘えているとしか思えない部分もあるんですよ。

——自転車自体の質というのは、昔と比べたらかなり上がっているんですよね?

ずいぶん変わりましたね。俺らの頃はクロモリという鉄パイプのでやっていたのが、いまはカーボンだし。あとは個々に合うか合わないか。道具にこだわるタイプじゃなかったんで、何でもよかったんですけどね。

——色が赤ければよかった?(※中野が乗る赤い自転車は「中野レッド)と呼ばれている)

そうですね。自転車を作ってくれていた人をすごく信頼していましたね。

——長澤義明さんですね(※ナガサワレーシングサイクル代表。現役時代の中野の自転車を長年に渡り製造していた)。 

はい。長澤さんを信頼していましたから。「作ってくれ」「わかった。作ってやる」と、それでもう成立していた。出来たものに対して文句は言わなかったし。「ちゃんと作れよ」「ちゃんと乗れよ」「わかりました」っていう感じで。ただ「ネジはちゃんと閉めてくれよな?」とは言っていたかもしれない(笑)。

——そりゃ外れたら怖いですもんね(笑)。

たまに「サドル閉まってねえじゃん!」とかありましたからね(笑)。まだ選手になって何も知らなかった頃、先輩が世界戦行くなら提供するからとメーカーさんに作ってもらった自転車があったんです。その時にメカニックで行ったのが長澤さんでね。で、俺以外のふたりの選手は長澤の自転車に乗っていて、自分だけ違ったんです(笑)。それで「俺のも作って」と言って。でも初めて頼んだ時は違うメーカーさんのやつに乗っていたから「お前のは作れない」とか言われて「そうなんや? このクソ親父」とか思って(笑)。

——(一同爆笑)

それから世界選手権まで月に1回ぐらい「作ってくれ」と頼んでいましたね。で、ようやく「じゃあ仕方ねえな」って作ってくれて。それからはぽんぽんって勝っちゃって(笑)。

——やっぱり長澤さんの自転車は良かったんですか? 

自転車が良かったのか俺が強くなったのかは何とも言い難いですねえ(笑)。まあ両方マッチしたっていうことにしといて下さい(笑)。で、結局その年の世界選手権は長澤さんの自転車に乗って優勝しました。その頃、長澤さんはまだイタリア(※長澤氏は1970年代にイタリアでメカニシャン修行をしていた)から帰ってきたばっかりで、お金がなくて車も持っていなかったんです。で、「車が欲しい、中野ならレースの副賞で車をもらえるだろう」と。

——はあ(笑)。

だから「いいよ」って言って、ちょうど世界選手権を終えて帰ってきたオールスターの初日のドリームレースのメンバーに選ばれたから「(景品の車を)獲ったヤツが長澤にやろう」ということになって。で、勝ちました。そしたら「向こう10年間はタダで提供してやる」って。

——つまり世界戦10連覇分は入っているわけだ(笑)。

結果としてはそうなりましたね。たしか車はいすゞの117クーペを獲って、それから1年に1回は新しい自転車に変えていました。俺が世界選手権で使った10台は全部長澤さんが持っているはずです。

——中野さんは本当に道具にこだわりがなかったんですか?

人にもよるんでしょうけど、俺はあまりなかったかな。例えば靴なんかは持って行くのを忘れて、売店で買ったのを履いて三日間で三連勝して帰ったこともありましたね。

——弘法、筆を選ばな過ぎですよ(笑)。

「新品のほうがいいなあ!」とかよく言っていたぐらいでしたもん(笑)。こだわりがある人は、もうちょっとした変化がダメみたいですけどね。俺は簡単。すぽーんとハンドルを入れて、ぴゅっぴゅっと閉めて、「うん、真っ直ぐ!」っていう感じでしたから(笑)。だから最近の選手がセッティングがどうとかいろいろ言っても、俺にはピンと来ないんですよ。

速く走るためには速くペダルを回せばいいだけ

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——失礼は承知で伺いますが、自転車の乗り方のコツみたいなものがあればぜひ教えていただけませんか?

速く走るには速く(ペダルを)回せばいいんですよ。

——まあ、そうですよねえ……(笑)。

真面目な話、クルクルっと人より速くまわすようなイメージは常に持たなきゃいけない。まあこう言ってもほとんどの人はわからないみたいですけど(笑)。オートバイ誘導という練習があってバイクの後ろを走ると、風が来ないから楽に走れる。そうすると、調子がいい時ってどんどんどんどんスピードが上がるわけです。クルクルクルクル、チャーって回るんですよ。これが調子悪いと、一生懸命踏んでしまう。要するに上半身は動かず、ただ足だけがクルクルと回っている感じ。全身は使っているんだけれども、自分では足首だけで回すって感じで自転車が進むんですよ。

——ありがとうございます。でも僕らには全く応用が効かなそうですね(笑)。ちなみに足を引いている時は引くことをイメージされているんですか?

イメージはしていません。でも実際には引いている。当然踏み足のほうが強いけれども、引き足のバランスとしてはもう6:4とか、悪くても7:3ぐらいでしょうか。元々は陸上競技出身だったせいか、よく「自転車の上で走っているみたいだ」とは言われていましたが。

——なるほど。でも例えばカール・ルイスやジョイナーが自転車に乗ったらいいパフォーマンスするかと言えば……。

違うでしょうね。自分よりもっと高校時代に実績のあった陸上選手も競輪選手になったけど、成功しませんでしたからね。自転車って円運動だから、上死点と下死点でキレイに右左が入れ替わる。要は踏み過ぎてはダメなんです。踏み過ぎてしまうと、結果的に固定だからバックになるような形になるし、踏みすぎて足が煽ってしまうと、チェーンがぴーんと張った状態にならないんですよ。チェーンが波打つということは、常に力が加わっている状態ではない。いちばん良いのは、ぴーんとチェーンが張った状態でシャーっと回っている状態なんです。

——ギアの重さについては?

俺の頃は変えていませんでしたね。自転車が軽くなったから大きなギアを踏むようになったというのと、バンクもトラックが板張りになって、全体的にコンディションが良くなったので重たいギアを踏むようになったっていうのも理由なのではないでしょうか。

——つまり中野さんの現役時代よりも現在の平均速度は上がっている?

そうですね。突然いいタイムが出たりするのは、実はギアがかかっていると、スピードが上がったほうが楽なわけですから。車と一緒で、例えばローギアを入れて60キロで走ったらブーっていうけど、トップギア入れて20キロで走ったらもうノックして走れないでしょ? で、いまの選手はどちらかというとトップギアで入れているから、それはスピードが上がったほうが楽になる。

——なるほど。

いま競輪の場合だと昔ほど人が集まらないのは、まず家のテレビでレースを観ている人がたくさん増えたからですね。やっぱり映像的に面白いほうへとだんだん移り変わるんだと思います。ヨーロッパで自転車競技やロードレースは非常に盛んでね。例えばイギリスなら、自転車がめちゃめちゃ強いので、クリス・ホイとかブラッドリー・ウィギンスとか人気の選手がいます。でも他の国ではそれほど(お客さんが)入らないところもある。猛暑のせいで、夏場には出来なくなってきたというのもある。まあオリンピックだけは常に超満員なんですが。

——世界選手権10連覇のお話もぜひうかがいたいです。そもそも中野さんが行かれた時は、日本の協会から送り込まれたわけですよね? 

日本が世界選手権に選手を派遣し始めて20年目ぐらいの時に優勝したんですが、当時はプロ車連とアマ車連があって、それぞれ別々だったんです。俺はプロになって、まったく経験がなかったんですが、地区選手権がありまして。福岡の久留米に住んでいたんですが、その時は地区優勝したのかな。で、九州地区代表で全日本のプロ選手権に出ろということになりまして。今度は世界選手権の代表を選ぶから選考合宿をやりますとなって、その後に初めて世界選手権に行きました。外国に行ったことなかったから、「イタリア、行ってみたいな」という気分でしたね。まだ1ドルが260円とかの頃で。

——ちなみに当時の平均収入が幾らぐらいの時ですか?

あまりよく覚えていませんが、月給2、3万円とかの頃じゃないかな。卒業する時、同級生に「競輪選手になる」と言ったら、「え? 競輪選手になんかなるの?」って言うから「お前らが就職してから1年分の稼ぎを、俺は倍以上稼ぐから心配するな」と言いましたからね。まあ結局は倍どころじゃなかったんですが(笑)。

——当時はギャラというか賞金は現金で手渡しだったんですよね? 

そうですね。

——落としちゃったりすることは?

忘れていく人はいましたね。新幹線とかに(笑)。俺は落としませんでしたけど(笑)。1年目が19歳で、年間の賞金が840万円ぐらいだった。で、2年目は3千万ぐらいいって。で、先輩と旅館に泊まった時、「お前賞金どうした?」って言うから「持ってます」って答えたら「預けとけ、旅館の人に」と言われて。その時、50万ぐらいあったのを宿に預けて「大事にしろよな」「はい!」なんて言っていましたね(笑)。岡山から連絡船に乗っている間も、懐に70万円ぐらい入っていて、人とすれ違う度に気になってしょうがなかったことも(笑)。何年か経つと300万とか400万とかの現金でも、とうとうボストンバックの中に入れて新幹線の網棚にポンと置いて食堂車に行っちゃうようになってしまって(笑)。

——つまり麻痺してきたわけですね。

そうです。飛行機に荷物を預ける時も、現金の入ったバックと自転車(※現在は大抵事前に送るが、当時は選手が運んでいた)のふたつを預けて、空港で「自転車出てこなくてもいいからバックだけ出てこいよ」なんて思っていましたからね(笑)。

——すごい。世界選手権の第1回っていうのはお幾つの頃でしたっけ?

ええと、20歳だったかな。1回目は4位でしたね。初めての海外なので、一応支度金みたいな金をもらって、それをみんなで持っていくわけです。あの頃は現金の持ち込みに規制があったんですが、当時カードとかなかったからみんな現金2、300万は持っていた(笑)。しかもジーパンとかジャージみたいなのを着て買い物に行きましてね。スイスか何処かでロレックスの店に行ったら、高い時計が一向に出てこない。格好を見て、安いのしか出さないんですよ(笑)。でも誰かがじゃあこれ買うっていう時に財布から現金をボンと出したら、それから高い時計がポンポン出てきました(笑)。

——じゃあ初めて外国に行かれて、初めて外国の選手と走ったわけですか。 

ええ。外国の選手は足も長いし腕も長いし、しゃーって乗ってるのを見て「カッコいいなあ、絶対速いんだろうなあ」と思いながら、まあ俺はどうせ初参加だし、何も知らないんだから勝っても負けても関係ないしみたいな感じでレース出たんです。そうしたら「あれ?何だよ、そこまで強くねえな」って。

——(一同爆笑)

「これなら大したことない」と思えて。それからは楽に走れるようになりましたね。

——つまり中野さんもさることながら、当時の日本の競輪のレベルはすごく高かったということですか?

だと思います。ただそれをうまく出せていなかっただけで。

——世界選手権初出場で4位。2年目からは連続で10連覇されたわけですよね。

1年目は当時の世界チャンピオンのジョン・ニコルソン選手に準決勝で負けて。で、3位決定戦は菅田さんという日本の先輩に負けちゃって。まだ1年目だったし、素人みたいなものだったので、よく分からないまま走っていたんです。だって初めて自転車に乗ったのが17歳でしょ? で、初めて世界選手権に行ったのが20歳の時ですから、初めて自転車に乗ってから3年で世界戦に出て4位だったわけですよ。だから選手によく話すんですよ。「いまから(自転車を)始めても東京オリンピックに間に合うぞ?」って。

——そうか。ちなみに1年目で「これはもう来年いけるな」という手応えを感じていたんですか? 

「頑張って練習すれば勝てるな」とは思いましたね。帰国してから記者会見みたいなのがあったんですが、先輩はメダルをかけてるけど、俺は4位だからメダルないまま座っているだけだったんですね。で、何か言おうと思って「来年勝つから」って言っちゃって(笑)。

——で、ほんとに勝っちゃったという(笑)。

まあ言った手前は勝たなきゃいけませんからね。

——肉体面では外国の選手のほうが恵まれていたんですか?

どうでしょうねえ。あまりそう感じたことはなかったな。最近はいろんな種目があるし、幼い時から身体能力の優れた人がいろんな種目に進んでいる。昔の東ドイツとかソ連って、早い時点でそいつの身体能力を見て、お前はあれに、向いているって教育していたらしいですね。

——中野さんは海外でのブーイングも経験されているんですか?

海外でも日本でもほとんど受けなかったと思います。ただ1回だけシングルトン選手(※ゴードン・シングルトン。1982年の世界選手権で中野と死闘を演じたカナダの選手)とやった時はめちゃめちゃブーイングを受けた(笑)。

——でもあれはシングルトンが悪かったんですよね?(※シングルトンが二度に渡って中野を右肘で攻勢。結果シングルトンは転倒して右肘を骨折。全3本のレースの3本目が走行不可能となり中野が6連覇を達成した)

 俺の中では自分が悪くないってことになっているけど、向こうはまったくそう思ってないでしょうね(笑)。あの時、表彰式にも出てこなかったし。何年か前に会ったんですよ、シングルトンと。あれ以来初めて。俺、英語喋れないから、通訳替わりの友達と一緒に行ってね。そうしたら「いろいろあって今まで会えなかったけど」って言うから、「俺は全然気にしてない。メダルは俺が持ってるから関係ないしね」と言ってやりましたよ(笑)。

——(一同爆笑)。いっそテレビの企画が何かで、もう一度対決したら面白いかもしれませんね。

それはもう向こうの方が強いでしょうね。今でもシニアの部とかで、現役で乗っているみたいですから(笑)。

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“期待してもらえる選手”になるということ

——毎年世界選手権を連覇されていた頃は、プレッシャーなどは感じなかったんですか?

前半はそれほどありませんでしたね。記録がかかった頃に初めて感じました。6回目まではタイ記録っていいながらも、それほど意識していなかったんです。でも7回目になって急に日本でもスポーツ系の番組とかNHKで特番を撮ったりするようになって、妙にプレッシャーかかっちゃって。どちらかといえば“ええ格好しい”な性分なので(笑)。

——自著では“欲があればあるほどプレッシャーに強くなる”と書かれていましたよね?

そうそう。だから10連覇という看板があるから欲が出ちゃうんですよ。どこかのタイミングから「いま頑張れば将来きっと困らないぞ」という考えが頭のどこかに芽生え始めていたんですよ(笑)。

——なるほど。

でも俺はそういう気持ちをいまの選手に持ってほしいんですよ。「金メダルを獲ったら飯が食えるぞ!」とか思ってほしい。

——正しいですよね(笑)。そのためには現役時代に選手としてのレベルを上げておかなければならないわけですし。

そうです。実績をしっかり残しておけば、それだけ辞めてからも仕事があるんですよ。もともと選手を長くやるつもりがなかったので、最初の10年間ぐらいで頑張って実績作ってさっさと辞めて、あとはのんびり左団扇で暮らしたいなとか、そんなことばっかり考えていたんです(笑)。だから20代の時に大変な苦労をするなんて、そんなの当たり前だろうと思います。むしろするべきですよ。

——しかも中野さんは現役の頃、競輪選手としてのイメージについてかなり意識されていましたよね? 例えば「ファンが喜ぶ走りをするべきだ」とか。

どうせなら“魅せるレース”にしたいと思っていましたから。期待を持ってもらえる選手にならなきゃいけない。何もしないで終わってしまうのが一番良くない。何かするんだ、自分の力で1着を獲るんだという気概をお客さんに見せなきゃいけない。で、それができなくなったら辞めるべきだと自分は思っていましたね。

——それを実際に感じたタイミングがあったんですか?

それまでは抜けない選手がいなかったのに、吉岡(稔真)が出てきて「これは抜けへんわ」って思った時でしたね。「あとはお前に任せた」と言って辞めちゃおうと思いました。まあどこか辞めようかと考えていたんですが、現役10年目に結婚しちゃったんで、もうちょっと頑張ろうかなと思って結局17年続けましたね(笑)。

——(笑)。

ちょうど10年目ぐらいの頃、もう辞めようかなと本当に思ったんです。練習しても結果が出なかったり、なんかつまらなくなってね。でもその時に周りから「もう一度練習を見直してみたら?」と言われて試してみたら、惰性みたいな練習が多かったことに気が付いた。そこから練習法も変えてみると、また勝てるようになっちゃったんですよ。

——なるほど。世界戦の直前はどんな精神状況でしたか?

最初の頃は、気持ちの半分は年に1回のバカンスみたいな感じでしたね。

——ゴルフをやられますよね。自転車と何か繋がるものってありますか?

特にはないですね。大好きで頻繁にやっているけど、あくまで気分転換です。プロアマとか行くのが大好きなほどではあります(笑)。一番ひどかった時は、前の日にプロアマに出て、その次の日から競輪に行っていた。レース中、「いま落車してケガすると、明日のプロアマ出れなくなるから、危なくないところを走ろうかな」とか考えながら走っていたこともありましたね(笑)。

——それでも勝ったんですよね?

勝ちましたね。そこは勝たなきゃいけない(笑)。

——世界選手権とかグランプリとってお客さんの熱気もすごいですよね?

そこはうわーっと言われるのが大好きな性分なので(笑)。

——以前、女性のピアニストの方が大勢のお客さんの前で演奏することを想像すると、ムラムラして眠れない夜があったという話を聞いたことがあるんですが。

なるほど。まあ若い時は興奮して眠れない、とかはあったかもしれませんが。でもそういう時って結果はあまり良くないんですよ(笑)。普段通りによく眠れた時のほうが良かった。日本では普段は宿舎にカンヅメなので、競技場まではバスで移動したり歩いたりしていたんだけど、どこどこの競輪場で開催するとなると、競輪場のシステムに合わせて時間配分も分かるから、1日のルーティンが決まってくる。俺は朝飯をほとんど食わないんです。寝っぱなしでね(笑)。で、「そろそろ時間ですよ」と言われると、カーテン開けてコーヒー飲んで、さあぼちぼち始動しようかな、という感じでした。で、例えば朝連して終わったら自転車の整備をしてからみんなでちょっとお茶でも飲もうかとコーヒーを飲みながら甘いものを食べて。で、第1レース終わるとお昼ご飯を食べて……。

——レースの直前にご飯を食べるんですか?

最終レースがほとんどだから、実際走るのは4時から4時半だったんです。その代わり朝起きてコーヒーを飲んで、それからレース前の昼食までは何も食べなかった。その分、昼寝を30分ぐらいするとすごく気持ち良かったんです。

——じゃあコーヒーは1日2回?

そうですね。

——昼食はどんなものを?

競輪場で用意される食事でした。特にこだわりもなく。前検日の競輪場はどこもほとんどカレーライス(笑)。いまもほとんどそうみたいですね。

——それを完食?

はい。

——おかわりは?

したした(笑)。

——中野さんの経験としては、コーヒーは身体に良い飲み物でしたか? 

いいんじゃないかな。ともかくドーピング検査に引っかからなければそれでいいと思っていたけど(笑)。最近になって、北京オリンピックの時のジャマイカの陸上チームがドーピングだったとかで失格になったでしょ? あんな何年も前のことをいまさら引っ張り出されても困ると思いますよ。

——そう思います。話は戻りますが、自転車に限って言うと、若い人が夢を持つにはどうしたらいいんでしょうかね。

何となく思うのは、例えば水泳でもレスリングでも、メダル獲った人が身近にいて、その後にその人がどう変わっていったかを目の前で見ることが一番効果的なのかなと。「自分も頑張ろう」という気持ちになり易いというか。自転車は、正直俺以外にあまり突出した選手ががいないんですよ(苦笑)。だから若い人にも頑張ってほしい。

——なるほど(笑)。

だからいま「オリンピック出たくないの?」と声をかけても「いや、出たいです」と、「出たいなら言って来なさい」、「はい、分かりました」とか言いながらなかなか来ない。現実ばかりを見ているのかなあと感じますね。競輪選手がレースを休まなきゃいけない事になりますからね。まあ東京で誰かメダルを獲ればまた変わるとは思うのですが。

——もういっそ中野さんが出て獲っちゃえばいいんじゃないですか?

俺!? ムリムリ!! 去年“レジェンド・レース”に出たら死にそうになりましたからね(笑)。やっぱり自転車は毎日乗っていないとダメ。継続は力です。いまは全く乗らないから。だいたい乗っていたら、いま頃こんなにお腹が出ていませんよ(笑)。

——でも世界を獲った人って、日本人の総人口の中でほんとに数えるほどいないわけですよね。

まあそうですね。でも本人はあまり実感がないんですよね。最近の世界戦を見ても「うわ、すごいな。でも俺、こんな所で勝ったんだな。信じられないな」とは思っちゃいますけど(笑)。

——じゃあ日本の旗を背負っているという感覚も?

正直あんまり背負っている気はしていませんでしたねえ(笑)。

——海外ではいまでも中野さんのことを知っている人が多いですよね。「ナカノ」とか呼ばれませんか?

そんなには呼ばれませんよ。時々、競技場行った時に「サインくれ」とか言われるぐらいで。日本では顔と名前が知られてるけど、ヨーロッパでは名前は知っているけど顔は知らないという人がほとんどみたいです。だって向こうの人たちは日本人の顔はみんな同じに見えるようだし、それこそ昔の雑誌で、名前が「Nakano」って刷ってあるのに、写真が滝澤だったこともあったぐらいで。

——(一同爆笑)

「あいつと一緒にすんな!」みたいな(笑)。何度かタダで写真がコマーシャルに使われていたこともあったしね。

——すごい時代でしたね(笑)。

フジテレビの仕事でツール・ド・フランスに行ったことがあって。当時はまだ現役を辞めて間もない頃だったので、「自転車を用意するのでコースを走ってきませんか?」と言われて。それで坂道を登っていたら「Nakano!」って呼ばれて。俺のこと、知ってるのかな?と思ったら、誰だか分からないけど日本人が走ってきたんで、当てずっぽで「中野!」と呼んだらしいんですよ(笑)。だから後で日本のカメラマンが「あれ、本物の中野だよ?」って教えたらびっくりしていた(笑)。それでも「本当に本物かよ?」みたいな感じで全く信用されていませんでしたけどね(笑)。

——有名な名前というのは時間が経つにつれて勝手にひとり歩きする時がありますよね。でも悪いことではないし、そう思ってもらえたほうが楽なこともあるわけですよね。ただ中野さんの記録を超えた方が、まだ世界に誰もいらっしゃらないわけで。

人がそうやって言ってくれるので、「そんなことないですけどね」とだけ言おうと決めています(笑)。

——(笑)。必ず冠に“世界の”と付くのは本当にすごいことだと思います。

ありがとうございます。あ、世界と言えば、以前に、毎年春が来ると各界のレジェンドが集まるみたいなゴルフ大会がありましてね。徳光和夫さんが司会をやられていて、青木功さんと王貞治さんと日野皓正さんたちが集まったんですよ。徳光さんが「世界の王」、「世界の青木」と言っていたから、僕も「世界の中野です」なんて言ってね(笑)。その時、青木さんが笑い合って喋っているのを聞いていたんだけど、訛りがすごくて、何を話しているのかもうちっとも分かんなくて。

——(一同爆笑)

よく話が通じているなあと感心したものでしたよ。

——もしかして相手の話をほとんど聞いていなかったんじゃないですかねえ?(笑)。

そうかも知れないですね(笑)

——今日はありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。世間話みたいで失礼しました。

 

(プロフィール)

中野浩一……1955年生まれ。福岡県久留米市出身。1975年に競輪選手としてデビューするといきなり18連勝を記録。1976年には第18回競輪祭にて「新人王」を獲得。1977〜86年の自転車世界選手権におけるプロスプリント種目で前人未踏の10年間連続チャンピオンとなる。このV10獲得はギネスブックに掲載された。1980年には日本プロスポーツ界初の年間賞金1億円突破選手となる。1986年・「内閣総理大臣顕彰」受賞。1987年に尚美夫人と結婚。1992年6月に競輪選手を引退。2000年シドニーオリンピック「KEIRIN」種目にて初ペーサーに選ばれ参加。2006年「紫綬褒章」受賞。2016年10月より日本自転車競技連盟強化委員長を務めるほか、スポーツコメンテーターとして多方面で活躍している。

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