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2017.09.01 COFFEE PEOPLE ~ Vol.21 DJ KAORI ~

毎月、各界のゲストとコーヒーを入り口に様々なトークを繰り広げていくCOFFEE PEOPLE。第21回目はDJ KAORIさんの登場です。

単身ニューヨークに渡り、一流DJ 集団に日本人の女性DJとして唯一迎え入れられた経歴を持つDJ KAORIさんは NY タイムス の一面を飾り、ニューヨークの No.1ラジオ局 Hot 97 にて日本人として初めて DJ プレイを披露するなど輝かしい活躍を続けてきました。近年は日本を拠点に活躍を続け、彼女がミックスしたアルバムは、これまでに売り上げ累計400万枚を突破しています。

そんなDJ KAORIさんはどのような道のりを経て現在のキャリアにたどり着いたのか。その足跡からDJにかける想いまでを大いに語っていただきました。ぜひお楽しみください。

(聞き手:鳥羽伸博(TORIBA COFFEE代表)。写真:石毛倫太郎。構成:内田正樹)

 “ストイックな肉体労働者”だったニューヨーク時代

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——ニューヨークから日本に帰ってこられてもう何年ぐらいですか?

「もう10年近くなります」

——じゃあCDをリリースし始めてから10年?

「リリースは2000年かな。こっちに戻る前から始めていたんで」

——これまでに何枚出されたんですか?

「多分30枚以上は出していますね。数をいっぱい出して稼ごうという(笑)」

——先日、機会があって一緒に食事させていただいた時に、小さい頃は高知の四万十川で泳いでたというお話を聞きましたが(笑)、そこからどのようにアメリカへ渡ったのかなと。

「学生時代から音楽好きで、小学校ぐらいからレコードを買い始めて。昔は田舎でもレコード屋があったので、ちっちゃい頃はレコードを買うこと自体は案外が身近だったんです。それでアイドル系からいろいろと買い漁りはじめて。家族も理解があって、父はレコードを買う時にお小遣いくれたりしていたし、母も私と一緒にピアノを習いに行ったりしていて。そこからだんだんと熱を帯びてきて、音楽雑誌とかラジオのエアチェックを始めて、どっぷり音楽にハマっていきましたね。まだインターネットなんて無かったんで、とにかく自分で情報を探さなきゃいけなかった。だから雑誌も定期購読して」

——当時の同級生とかは?

「話が合うのは一人か二人という感じでした。だから結構浮いていましたね。それでもレコード屋でバイトしたり、放送部に入ってお昼に好きな曲かけたりして」

——その頃からDJ KAORIだったんですか?

「まだDJ KAORIじゃなかった(苦笑)。DJとかいう職業すら知らなかったし。まだDJ=ディスクジョッキーの時代でしたから、小林克也さんとかそういうイメージだった。その頃ラジオを聴いていて、ちょうど大貫憲章さんの番組で、藤原ヒロシさんのDJ MIXみたいなのを聴いて、ああ、こういう仕事があるんだって知りましたね。全く喋らないで、ただ曲をかける。いいじゃん? みたいな。以前その話をヒロシさんにしたら『パーセンテージくれ』って言われましたけどね(笑)」

——流石だなあ(笑)。で、東京に出てこられたんですか?

「そうですね。まず東京に来て、それからニューヨークに行きました。最初はアメリカに行くつもりはなかった。ジャマイカに住みたかったんです」

——ということはレゲエですか?

「そうそう。キングストンにやられちゃって。あんな危ない街、今思い起こしたら本当に何にやられたのか分からないんですけど(笑)」

——最近はジャマイカには行かれていないんですか?

「何年か前に行きましたけどね。本当、いま思えば『何であんな怖いの、イヤだよね? 若さって無謀よね?』という感じで(笑)」

——ジャマイカってやっぱりブルーマウンテンがあるので僕は行くんですけど、そういう時に同行する人っていうのは基本的にコーヒー関係の方々なんで、ブルーマウンテンを見たらもう終了なんですよ(笑)。あとは『危ないから外に出ちゃいけません』みたいな話になるんですけど。僕はこんな感じなので、ボブ・マーリーのミュージアムに連れてけとか、どっか道で気になるところがあると『(車に向かって)止まれ』とかやるわけですが、商社の人的にはそういうのNGなんですよね(笑)。

「何かあった時にイヤなんでしょ、責任とか(笑)」

——尚且つ一緒に行った人たちも盛り上がらない(笑)。でも現地の人は僕みたいなのに喜ぶわけ。『お前、ジャマイカ好きなのか?』、『まあ好きっていうか……網シャツ買っていきたいんだけど』、『お前、エライな』ってまあ大抵はインチキなんですけど(笑)。

「そうそうみんなインチキ!(笑)。こぞって騙しにかかりますからね。値段も全くあって無いような感じで全員嘘つき(笑)」

——白人まで嘘つくもんね。

「でも悪気はないのね。みんなニコニコしながら嘘ついててね。すごいと思いますよ。雑な国ですよね(笑)。悩み事がたぶんうちらとは全然違うんだと思いますよ」

——本当にそうですね。

「まだ平気で外でおしっこしてるし(笑)。戦後の日本みたいな懐かしさもあって。ブルーマウンテンはどうなんですか?」

——すごくいいコーヒーですし、独特だし、日本のコーヒー業界が長い時間をかけて育ててきたいいコーヒーなのは事実なんですけど、偽物も多いんですよ。やっぱりジャマイカ人は嘘つきなので、石が入っていたり重さが違っていたりとか。まあちゃんとした人のところで買えばちゃんとしているんだけど、そのちゃんとしたところがすごいんですよ。丘の上にものすごく高級な白い家が建っていて。ご飯でも食べていると、そこの息子が来て、『お前、リアルジャマイカンだから特別にいいコーヒーを分けてやる』なんて言われて。で、『この農園を見て、お前はどのあたりが好きだ?』と。え、場所?みたいな(笑)。『あのあたりかな』と言うと、『ああ、お前流石によく分かっている。リアルジャマイカンだな!』とか言われて(笑)。で、帰ってきて、そろそろ豆が届く頃になっても全く連絡が無い。おかしいなと思って商社に電話したら、『え? 鳥羽さん、そんな約束したんですか?』と。そうしたら『鳥羽さん、先方に確認したけど、そんな話は聞いていないって』って(笑)」

「出た!!(笑)」

——『ランキンタクシーにお金貸したからお前が代わりに返せ』とか知っている名前を全部出して嘘をつくし、知り合いがバスの時刻表をメモっていたら、『お前はスパイだ』と言われて警察に捕まって。『荷物を全部出せ』と言われてポケットに入ってるものを置いたらお金をずっと見ているので1枚あげると『オッケー、ノー・プロブレム』って話を聞いたことがある(笑)。

「全然ノー・プロブレムじゃないよね(笑)」

——ところでKAORIさん、コーヒーは?

「すごく好きです。超飲んでますよ。朝淹れたりもするし、いつでも何でも飲みます。缶コーヒーもコンビニのカフェラテとかも飲むし」

——なるほど。で、結局ジャマイカには?

「ちょうどその頃、日本もジャパンスプラッシュだの何だのでレゲエが盛り上がっていた時代だったんで、ジャマイカに行ったら楽しかったから住みたくなって、雑誌で告知を見つけた旅行代理店のジャマイカ在住社員の募集に書類を送ったんですよ。そうしたら採用とも不採用ともつかない返事がきちゃって。今期は採用じゃないんだけど、一年後の様子でむにゃむにゃみたいな(笑)」

——つまりキープにされちゃった?

「そうそう。で、じゃあとりあえず英語でも勉強しておこうかなと思ってアメリカに行ったんです。ニューヨークで一年ぐらい英語を勉強してジャマイカに行こうかなと思って。そうしたら今度はニューヨークが楽しくなっちゃって(笑)。そこから10年以上もの間、居座ることになるんですけど。最初は気軽な気持ちでしたね」

——その頃はどんな生活を?

「最初はダラダラとした典型的などうしようもない留学生のスタイルでしたね。バイトもカラオケバーで働いて(笑)。そこから徐々にいろんな知り合いができて、いろんなクラブに行き出して。ラジオのエアチェックも相変わらず常に欠かさずしていました。あとはレコード屋巡り。そうやっていろいろな曲を勉強して、その土地土地のルーティンというか、人気のある曲を知ってという毎日でした」

——その頃はどういう音楽を聴かれていたんですか?

「やっぱりブラックミュージックが多かった。90年代だったんでそういう時代でしたしブラックミュージックが強かったので。ヒップホップ、ダンスクラシックス、レゲエもそうだったし。するとある時、ちょうど知り合いのルームメイトが“MATCH”というソーホーのレストランバーでマネージャーをしていて、私がレコードを集めているのを知って、マネージャーはレゲエが好きだったことも手伝って、レコードをかけさせてくれたんです。その頃レゲエはボブ・マーリーのおかげで白人をはじめいろんな人種に受け入れられていた。だからかけることにおいてはヒップホップよりも敷居が低かったんです。90年代はまだ差別があって、ヒップホップなんかも白人のお客さんばかりのトレンディなレストランではかけられなかったんです」

——そこでついにDJ KAORI誕生ですか。

「誕生ですね(笑)」

——ちなみにその当時、アナログ盤でどのぐらい持っていらっしゃったんですか?

「何千枚かはあったと思いますよ」

——でも当時ってレコードを持ってお店に行ってかけるってすごい大変じゃありませんでした? 重いし。

「大変でしたね。肉体労働でしたけど、それよりも楽しいほうが勝っていたんでしょうね。何十キロもの荷物を運んでいたので、今だったらちょっと考えられない。クラブによっては階段で4階ぐらいに持って行かなきゃいけなかったし。向こうでミルクを運ぶ時に使うミルククレーツっていう入れ物にレコードを入れて、タクシーを停めて(笑)。大変でしたね」

——その頃、日本人女性のDJなんて他にいました?

「いなかった。日本人だけじゃなくて女性のDJがまず少なかった。いてもまずレズビアンという時代でしたね」

——そこからはどのように活動していったんですか?

「いろいろなパーティに出ると、他のパーティから『私のパーティでもやってみない?』と声を掛けられるようになっていったという感じだったかな」

——その時点でKAORIさんとしてはもうDJの自信があったんですか?

「いやいや全然そんなんじゃなかった。自分がやれるとも思っていなかったし自信もありませんでした。ふとした流れで始めてしまって、やっているうちにもっとやりたいという気持ちが芽生えたという感じでしたね」

——当然モテモテでしたよね?

「全然!(笑)。そんな余裕もなかった。帰りだってレコード持って帰らなきゃいけないし、DJの間もたるいプレイなんかしたら客が引いちゃうんで、心の余裕が全く無かった。いま思い出しても余裕があった時なんて1回も無かったと思う。常にいっぱいいっぱいでした」

——いまでもその時に見た景色って覚えていますか?

「覚えてますね(笑)」

——当時はどういうファッションでDJを?

「いろんな格好をしていましたね。パーティではみんなある程度ドレスアップしているから、女性も露出度が高かったし、そうじゃないと全然モテないから、私も今日みたいな服でDJしていましたね」

——そこから徐々に仕事が増えて……。

「そうですね。いつの間にかDJだけで何とか食べられるようになって。時代もよかったんですよ。90年代はメインストリームの音楽がヒップホップになって、それまでハウスだったハコ(会場)や、トンネルとかライムライトといった有名なハコがどんどんヒップホップバコに変わっていった頃でした。ニューヨークのダウンタウンからも白人のヒップホップDJなんかが出てきて。ヒップホップの間口が広がって、エッジな人たち人種を問わずヒップホップを聴くようになった頃でした。それもあってDJの頭数がまず足りていなかったんです。まだそんなに黒人以外の人種の人でヒップホップを回したりする人も少なかった。それもあって仕事が来るようになったんです。私とかマーク・ロンソンとかストレッチとかジュールスといった面々がいわゆるダウンタウンDJみたいな感じで仕事が回ってきて」

——ヒップホップって黒人のものだったりするじゃないですか。いじめとかやっかみはなかったんですか?

「その前に、なかなかそこまで入り込めないですよ。その中に入れてもらうっていうのはやっぱり難しい」

——でも入ったんですよね?

「まあ、入りましたね(笑)。そうしているうちに自分のパーティも人気が出てきて、更に仕事がたくさん来るようになった。知名度も上がってきて、ダウンタウンでマークと一緒にやったり、自分だけのギグもいっぱいあって。その噂を聞きつけて、DJチーム(※後にDJ KAORIが所属するビッグ・ドッグ・ピットブルズ)を作ろうとしていたファンクマスター・フレックスが観に来たんです」

——インターネットも無かった頃に口コミで噂を聞いて来たわけですから、かなりの人気だったんでしょうね。

「いえいえ。私は彼をもちろん知っていて尊敬もしていたので、手がガクガクしちゃって(笑)。それで彼のチームに誘われて加入しました」

——このスカウトの凄さって、DJやヒップホップの世界が分からない人にどう説明すればいいんでしょうか?

「うーん、いきなりEXILEのメンバーに選ばれた、みたいなことなのかな?(笑)」

楽しみはみんなでシェアしなきゃつまらない

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——チーム立ち上げ時のメンバーは何人いたんですか?

「オリジナルのメンバーはね、5、6人だったかな」

——少数精鋭だ。その5、6人で一緒に動くんですか?

「普段は営業を別々にして、ツアーがあると一緒に動くんです」

——ツアーはどんなところまで?

「ノースカロライナとか、もういろんなところに。しかもバスで行くの。飛行機に乗りたくない人が多くて。飛行機怖い黒人って多いんですよ。自分がマイノリティで黒人でサクセスフルだと殺されるんじゃないかという恐怖感があるらしくて。一時期、ラッパーが死ぬと陰謀説とかよく言われたじゃないですか」

——ああ。でもその頃、師匠は当然すごい稼ぎだったんですよね?

「すごかったです。もうバブルでギランギランでブリンブリンでしたよ(笑)」

——(笑)。バスは普通のバスで?

「ベッドとかが付いているツアーバスでした。移動距離、長いんですよ。十何時間とかバスの中ですよ?」

——それは楽しかったんですか?

「楽しくはなかったですね(笑)。厳しいし、和気藹々というバイブスじゃないんですよ。同じチームでもやっぱりライバルだし、おまけに男ばかり。とにかくすごく勤勉だからお酒も飲まないし、常に仕事しているかご飯食べるか寝るか。ストイックでしたよー?(笑)」

——ちなみにツアー中はどんな食事を? ステーキとかですか?

「そんないいもの食べられません(笑)。グレイビー。ピザ。ハンバーガー。ピザみたいな」

——ブリンブリンな師匠はお金何に遣っていたんですか?

「車とか? でもそうとう貯め込んでいたと思います。だって遣うヒマなんてなかったもん(笑)。私とかでも毎晩仕事があったし。フレックスは月曜から土曜の朝から昼までラジオ番組をやっていて、そこから夜に営業やって、次の日はオフィスに来てそこから地方に行って。もう本当にヒマが無かったんですよ(笑)」

——すごいですね。結局何年ぐらい一緒に?

「3年ぐらいはいたかな?」

——ツアーで危なかった体験は?

「まあ必ずセキュリティがついていましたけど、緊張感で気が抜けなかった。バッグを切られて中身を盗られることだってあるし、何があるか分からなかったので」

——他のインタビューで、レコードバッグを盗られて取り返しに行ったというエピソードは読みました。

「取り返した(笑)。犯人を突き止めて何とか(笑)。それがたまたまマーク・ロンソンの友達だったニューヨーク大学のヤツで(笑)。住んでいた家まで行ってね。そうしたらお母さんしかいなくて。でも息子のことが分かっていたんでしょうね。『いいから持ってって』と言われて(笑)」

——独り立ちしようと思ってチームを離れたんですか?

「いや、DJチームのマネジメントとが上手く機能しなくなって、一旦解散みたいな流れになったんです。だからそのタイミングで。その時点でもう仕事に困るということはなかったんですけど、結局一人でやってみると、それ以上の伸び代が見えなかったんですね。知名度が上がってMTVとかテレビのオーディションということになっても、発音的にローカルの人には敵わないし、後から登場したDJにどんどん抜かれちゃうのもどうなのかなって。やっぱりDJって当時はそのローカルの音楽好きの代表みたいな感じだったので、どうしても自分で自分のアウトサイダー感が拭えなかったんです。それに私もたまにはシャンペンを開ける側になりたいなとか思うわけですよ。もっとハッスルしたいって」

——(笑)。

「すると『じゃあここにいちゃ無理だな』と思った。自分の限界という意味で。もっと儲けたいけれど、やっぱり私はドルよりも円を稼いだ方がいいんじゃないかなと思い始めて。この(ニューヨークの)人たちは、ドルを稼ぐことは私より得意かもしれないけど、円なら絶対私の方が得意なはずだと思い始めて(笑)。そこから徐々に日本へ行くようになって、日本でもっと真剣に自分を売ろうと思ったんですね。やっぱりいろんな意味でニューヨークは辛いですよ。キツいもん!(笑)。例えば人にナイスなことをしたら、日本だと逆にその人にナイスを返しなさいという教えだけど、アメリカ人にナイスにしたらテイク・アドバンテージとられちゃうから(笑)。だから人にもナイス出来ない。泥棒にしても、日本だったら盗った方が悪いけど、アメリカでは盗られた方が悪いから。 全部自分の責任になっちゃう」

——常に戦闘モードで気を張り続けなきゃいけなかった?

「うん。キツかったですね」

——それで日本に拠点を移して。

「その時ちょうどデフ・ジャムが日本でレーベルを立ち上げるというタイミングもあったりして、私はデフ・ソウルのほうだったんですけど、とにかくそこからCDを出して」

——向こうにいる頃、日本が恋しくなったりは?

「全くならなかった(笑)だって気持ちが全開の時って、時間なんてあっという間に過ぎるじゃないですか」

——まあそうですよね。例えばDJ KAORI’S MIXみたいなアプローチって、KAORIさんじゃなくて、向こうDJがやった場合、需要はあるんでしょうか?

「そもそも向こうはラジオが普通に流れているので必要性から異なるんですよ。当時の日本はまだそういう機会がなかったので。だから私の一番のモチベーションは、日本の皆さんがあまり知らない洋楽をもっとたくさん聴いてほしい、みんなにこんなにいい曲があることを知ってほしいという気持ちなんです。それがあってのDJ KAORI’S MIXなんです」

——CDショップに行くと、平積みで置いてあった一番前がKAORIさんでしたもんね。

「コンピレーションですね。ミックスCDみたいなのはまだなかったので、それまではミックステープという形で、自分でテープを作って売っていましたね。私も1万本ぐらい売ったもん」

——すごい(笑)。さっきちょうどDJ EMMAさんが来ていて、EMMAさんの荷物を預かっていたんで二人で整理していたら、やっぱりテープとか出てきて『これ昔すごかったんだぞ』と話を聞かされて。いい時代だったんだなあと思いました。

「あはは。本当にいい時代でしたよねえ(笑)」

——その頃のテープを買った人とかに会ったりしますか?

「たまにありますよ(笑)」

——いい話だなあ(笑)。ところでCDジャケット写真のイメージはKAORIさんが自分で考えるんですか?

「大体はそうですね」

——男性はもちろん綺麗な女性が載っていれば、おっ!?と思うのは当然ですが、女性が何かを感じるんだろうなという魅力を感じるジャケットですよね。躍動感やポージングに男性だと思いつかない感じがあって。

「本当ですか? 嬉しい。自分でもいいと思っているのを選んでいるから、自ずと女性目線になっている部分は絶対にあると思います」

——日本でCDをリリースし始めた当時のDJは、男性より女性の方が多かった?

「どちらもいましたね。特に最初はヒップホップ系が多かったんで、お客さんも男性が多かった」

——DJ KAORIとしては、いい曲を伝えたいというコンセプトでずっとやってこられたわけですよね。

「そうですね。本当に放送部でDJかけるのと同じ感覚です。いい曲があったらみんなに伝えたいし聴いてほしい。みんなでシェアして『いいよね?』って言いたい。だって楽しいことってみんなでシェアしないとつまんないじゃん?と私は思うので」

——そこを一番大切にしているし、だからJ-POPだろうがEDMだろうが、全てはその延長線上にあるということなんですね。

「そうそう。だからジャンルにあまり拘りが無いんです。いい曲というのはどんなジャンルにもあるものだし。あとは曲の繋げ方によって曲の高揚感が増したり下がったりもするので、その曲が一番よく聴こえるようにかけたいという気持ちはありますね。順番、ミックス、ピッチや速さとか、音楽ファンとしてその現場で自分が曲を聴いた時の感覚を大切にしています。それがずっと現場でDJをやっている自分なりのアドバンテージでもあると思うし。常にお客さんのニーズの中に自分がいるから、そういう意味では時代時代でお客さんにウケるものも分かる。これ絶対に流行るとか、これは絶対にダメだとか」

——なるほど。これからのDJ KAORIはどういう方向へ向いていくんでしょうか?

「私がやっていることって草の根運動みたいなものだと思うんです。自分がカッコよくいたい云々ではなく、ともかく皆さんに音楽を楽しんでほしいんです。普段、洋楽を聴かない人にも、音楽自体をあまり聴かないという人にも、音楽の楽しさに気付いてほしいという気持ちでやっているので。音楽って悲しい気持ちになったり元気をくれたり、最も安上がりにいろんなエモーショナルトリップが出来るじゃないですか。これからもそういう楽しみを少しでも感じてもらえるきっかけになっていきたいと思っています」

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(プロフィール)

ディー・ジェー・カオリ……14 才からアナログ盤を集め始め、16 才の頃から自己流で DJ を始める。単身でニューヨークへ渡ると、現地 No.1 Hip Hop DJ、ファンクマスター・フレックスの目に留まり、 彼が率いる DJ 集団“ビッグ・ドッグ・ピットブルズ”に唯一の女性 DJ として迎え入れられ、NY 中にその名を知られることになる。さらにはマライア・キャリーやP・ディディといったアーティストをはじめ、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、マイク・タイソン等のスーパーセレブからパーティ DJ のオファーを受けるまでに至る。
今までリリースした MIX CD は異例のトータル売上枚数 430 万枚を突破。 また、2008 年リリースした『RAGGA MIX』『INMIX DVD』はゴールドディスク大賞も 2 部門で受賞。ミックス CD 以外にも、 DOUBLE、安室奈美恵等のリミックス、May J.のヒット・シングルを筆頭に楽曲プロデュースも手掛けヒット・プロデューサーとしての一面もある。そのファッションセンスやライフスタイルから多くの女性ファンにとっての憧れの的となっている

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